2022年4月6日

株式会社三ヶ島製作所 取締役会長 荻野皓一郎さん

 

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株式会社三ヶ島製作所

〒359-1166 埼玉県所沢市糀谷1738

TEL : 04-2948-1261

   

1921年、大正十年はどんな年だったろうか。出来事をいくつかWikipediaから拾ってみよう。

 

411日 日本でメートル法公布

55日 ココ・シャネルが香水「No.5」発売

520日 旧区制廃止、市制施行

1213日 ワシントン会議で、日本、米国、英国、フランスの四カ国条約調印

 

などなど、があった。他にもいろいろな出来事があった。興味の範疇によって見える世界が違うだろうから、気になった人は見てみるといい。なぜ1921年なのかと言えば、今(2022年)から百年前だからである。一世紀前である。もし1921年に誕生して、現在もご健在なら今年ちょうど百歳になる。

 

 

 

株式会社三ヶ島製作所の取締役会長荻野皓一郎さんは百歳である。

 

 

埼玉県の南部、現在は所沢市の一部に合併された土地のひとつに三ヶ島村があった。みかじまと読む。お菓子問屋として荻野屋はその地域では有力な企業であり、荻野さんは五男として1921年に生まれた。不自由のない生活を送っていたが多くの人がそうであったように、第二次世界大戦が荻野さんの人生を動かした。二十代に入って徴兵されたが、幸いなことに戦地に送られることはなかった。それは荻野さんにそろばん計算ができたからである。同じ時期に徴兵された友人たちは皆戦死してしまった、と荻野さんはつぶやいた。府中で事務仕事に関わっている間に終戦を迎え荻野さんは早々に帰宅した。一芸が身を助けたのである。

 

 

 

荻野屋はお菓子問屋だが、戦中は軍に供給する部品を製造していた。光学機器メーカーの下請けとしてビスの製造をしていたのである。

荻野さんが帰ってみるとビス製造工場は開店休業状態であった。戦争が終わったため作るものがなくなったのである。従業員たちが草むしりをしたり掃除をしたりしていた。工場の敷地内には製麺所もあってかつてはうどんを製造していた。しかしうどんをつくる小麦粉もない。入ってくる予定もない。このままでは従業員たちを食わしていくことができない。いくら敷地が広いと言ったって、むしる草にも限界があった。そんな宙ぶらりんな従業員たちのためにも、ましてや自分のためにも新しいことを始める必要があった。かくしてお菓子問屋である傍ら荻野さんが初めたのはなんと自転車の、チェーンの、ピンの製作であった。

 

 

自転車のチェーンはおわかりだと思うが、チェーンはチェーンコマと呼ばれる部品が無数に連なってできていて、そのコマとコマを接続するための部品がチェーンピンである。その小さな部品を作ることにしたのである。

 

 

 

まったく畑違いであるが、まったく思いつきだったわけではない。荻野さんの姉の夫はその地域でも有数の自転車店を経営していた。ここに荻野さんと自転車との接点が生まれたのである。助言をもとにチェーンピンを製作してみると売れたのである。チェーンピンはいうなれば金属の短い棒である。この単純な製品を製作することで得た知識と経験をもってより複雑で大きなビジネスに成りうる商材として荻野さんが次に選んだのが自転車のペダルであった。三ヶ島ペダル誕生の瞬間である。

 

 

今でこそ、自転車にペダルがついているのが当たり前だが、自転車の原型なるものが生まれた当時はペダルなどついていなかった。1817年、ドイツの貴族だったカール・フォン・ドライスがドライジーネを発表する。これは自転車からチェーンやギアやペダルを取り除いて、二つの車輪とハンドルだけが残ったような乗り物で、運転者が足で地面を蹴って進むのものだった。偉大なる発明として評価されるのは後世のことで、当時は危険な乗り物としてほとんど相手にされることはなかった。

 

 

なにしろブレーキもついていなかったのだから。ドライジーネは上流階級の紳士たちの間でファッションアイテムとしてもてはやされた程度だった。ドライス男爵はアマチュアの発明家であり、民主主義の支持者だった。ドイツに君主制が復権するとその地位を追われてブラジルに追放され、数年後にヨーロッパへ帰郷を果たすも1851年、貧困状態でこの世を去った。ペダル誕生をみることなく。

 

 

ドライジーネの誕生から三十八年後、1855年にフランス人のアーネスト・ミショーが発明した自転車ヴェロシペードに世界で初めてペダルが装着された。前輪に固定されたペダルで、ちょうど子ども用三輪車のそれと同じ仕組みであった。この後、自転車は様々な改良を経て現在の形になっていくが、それは別の物語。ここではペダル誕生をもって話をもとに戻したい。

 

ペダルはいくつかの部品によって構成されている。その中で荻野さんが最初に製作したのは芯棒(ペダルシャフト)だった。芯棒はペダルを自転車に取り付ける部品であり、厳しい負荷のかかる部品である。だれしも自転車に乗りながらペダルの上に立ち上がった経験はあるだろう。その体重を一身に受けるのが芯棒だ。自転車に乗っていて芯棒が折れた経験はそうないだろう。そのくらい芯棒は固く作らなければいけない。

 

そのため芯棒は焼入れという工程をいれて硬度を上げるが、そのとき加える添加剤は青酸カリだった。青酸カリ(シアン化カリウム)は猛毒の代名詞みたいな印象を持つかもしれないが、金属を焼入れする際の添加剤として多く使用されてきた。青酸カリにつけた金属を熱することで表面硬度が高くなり硬い鋼ができるのである。

 

(注)青酸カリを用いた焼入れ法は当時町工場などで広く行われた方法だったが、その有毒性から廃液処理が煩雑になり次第に毒性の低い方法へと変化していった。

 

 

もと製麺所で作った芯棒を持って荻野さんは東京へ売りに行く。電車に乗って池袋へ出る。車両の窓がところどころ板張りだった。きっと直す材料もなかったのだろうと振り返る。それから山手線に乗って上野や御徒町や浅草などへ芯棒を売って回った。最初の芯棒が売れるまでが辛かった、と荻野さんは言う。なにしろ当時日本にはペダルメーカーが四十社以上あったのだから。だから荻野さんは精度と品質にこだわった。どこよりもいいものを作ることが、市場で認められる唯一の方法だと信じた。そしてそれは今も変わらない。

 

 

やがて三ヶ島製作所の作る芯棒は評判を得て飛ぶように売れるようになっていく。まるで売れなかった日々がうそのように一日に生産できる量の何倍もの注文が入るようになった。製造が間に合わないほどの注文を横目に、荻野さんは次の行動にでる。芯棒だけでなく、ペダルそのものを作ろう。

 

 

 

そしてペダルの製造を始めた。名実ともにペダルメーカーになった。しかし新興企業は余所がやらないことをしないと生きて行けない。高精度、高品質は当然。そこへプラスアルファを追加した。そこで新しいペダル、樹脂製のペダルを作ろうと考えた。しかし当時の樹脂は樹脂単体で作るには強度が足りない。芯材として鉄の角棒をいれたいがその角材の入手先がわからない。荻野さんは芯棒を売り歩きながらその角材を売ってくれるところを探した。ひとつひとつ手探りで、なにもないところから始めて、三ヶ島製作所は着実にペダル専業メーカーとして成長していった。2022年、四十社以上あったペダルメーカーは全て廃業して、三ヶ島製作所は日本唯一のペダル専業メーカーになっていた。

 

 

荻野さんは技術者ではない。だから技術的なことはいつも傍らに参謀と呼べるひとがいた。営業のできる人間が荻野さんを慕って会社にやってきた。いつの間にかそれぞれのエキスパートが集まって三ヶ島ペダルをよりよいものへと作り上げていった。荻野さんはそうしたひとたちを束ねるのが上手なのだろう。荻野さんはリーダーのエキスパートだった。

 

 

従業員は社長のことをよく見ている。陰口を叩かれるようになったらリーダー失格だ。遊び呆けたり、自分の懐にばっかり入れているのは失格だ。そういうことをしないでちゃんとした商品を手頃な価格で売っていれば企業は潰れることはない。荻野さんは何度もそう繰り返した。

 

 

三ヶ島ペダルは製品の優秀さを認められ、並み居る競合他社を押しのけて大臣賞を受賞した。競輪で使用可能なペダルは三ヶ島ペダルだけである。オリンピックに出場したバイクに取り付けられていたのは三ヶ島ペダルだった。そして三ヶ島ペダルは世界のミカシマになった。そう、輪界(自転車業界)ではその名前を知らないひとはいない存在になったのである。ところで三ヶ島ペダルはミカシマと濁らずに発音する。三ヶ島村はミカジマと読むが、海外のひとが発音しやすいという理由で濁らずにミカシマというのが正解だ。

 

自転車を趣味にしていなければ、今まで自転車のペダルをまじまじと見たこともないだろう。自転車を買えばペダルも当たり前についてくると思っている。ペダルのない自転車なんて乗りようがないからだ。しかしスポーツの世界に目を移せば、店頭に並んでいる自転車にペダルがついていないのが当たり前である。それは、自分好みのペダルはひとそれぞれ違うからである。だからスポーツバイクを買うひとは、ペダルを別で購入して取り付けるのだ。ペダルのことなど考えたこともなかったというひとほど、ペダルの世界は広く新鮮に映るだろう。

 

 

ペダルに情熱を燃やし、人生をかけているひとたちがいる。Made in Japanのペダルが存在する。それは日本唯一のペダル専業メーカーが作り出すペダルである。七十年以上ペダルに人生をかけてきた男がいる。そしてその情熱は三ヶ島ペダルの血肉となって受け継がれていく。

 

 

ペダルを変えるとなにが変わるのか。それは自身で体験してほしい。

 


<参考>

IT’S ALL ABOUT THE BIKE, Robert Penn, BLOOMSBURY 2010

 

Campagnolo The gear that changed the story of cycling,

Paolo Facchinetti, Guido P. Rubino, 仲沢隆訳 枻出版社 2009

 

東部金属熱処理工業組合「化学的硬化法について」

https://www.tobu.or.jp/yasashii/book/gj15.htm

 

ウィキペディア「1921年」