2023年3月31日

UD DANCE 北村 仁さん

 

 

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手話は言語である。言語と聞いてそのとおりだと思うか、それとも違和感を感じるか。手話も国によって違いがあり、日本語の手話があれば、アメリカ語の手話があり、イギリス語の手話がある。口語において、アメリカとイギリスはともに英語になるが手話は違う。さらに手話にも方言があり、地域性がある。手話はれっきとした言語であり、決して日本語のサブセットという扱いではない。なぜここまで手話が言語であることにこだわるのかと言えば、一般的に手話が言語であるという認識が低いからである。

 

 

ある特定の国のひとと話をするときは、その国の言葉を知らなければ会話は成立しない。もちろん相手が日本語で話しかけて来ない場合のことであるが。手話とはつまりそういうことである。手話を話す国のひとがいるということである。多民族国家になれば、ひとつの国にそれぞれ違った言葉を話すひとたちが混在する。手話を話すひとたちもそのひとつである。

 

 

 

 

手話は耳が聞こえないひとが操る言語である。ところが言語であるという認識は遠く置き去りにされてきた。手話は言語ではないという迫害の歴史がある。手話を使ってはいけないという社会の態度と実際の行動は、西洋だけでなく日本にもあった。歴史の話は端折るが、どちらも手話ではなく可能なかぎり声を出して話せというのである。ろう者でも声がでないわけではない。しかし自分の声を耳で聞くというフィードバックが出せないから声は出せても言葉にできないのである。それでも口の形や聴者の反応を読んで声で話すことを学ばせようとした。世界的に手話を抹殺しようとした過去があるのだ。それでも手話は生き延びた。ろう者同士では手話ほど円滑にコミュニケーションがとれる手段はないのである。あってるんだか間違っているんだかわからない発声はとても言葉として頼れるものではなかった。

 

 

聴者がろう者の手話を滅ぼそうとしたのは、マジョリティがマイノリティを迫害してきたひとつの例である。もちろんそこには聴者側のもっともらしい理屈が存在するのだが、つまりそれは自分たちと仲良く暮らしたかったらマジョリティ流を受け入れろというだけのことであった。それをあたかもろう者にとって有利な条件のように語ったのである。当時の聴者たちにとって、手話が言語であるという認識はなかっただろう。もしあったとしても決して受け入れなかったに違いない。なぜならもし手話が言語ならつぎの例が手話にも通用するからだ。「少数言語としての手話」という本に実にわかりやすい例が出ている。たとえばフランス人に対してあなたのフランス語はまるでだめだから明日からフランス語をやめて日本語で話しなさいと言ったらその違和感は計り知れない。手話を言語として認めるということは、つまりそういうことなのである。

 

 

手話は生き延びた。そして手話こそがろう者にとってもっとも重要なコミュニケーション手段であると認められた。手話はろう者の言語である。やがてマジョリティからマイノリティ側に立って物事を考えるひとが少しずつ現れて、手話芸術が誕生する。

 

 

 

 

神奈川県平塚市にダンスに手話を取り入れて踊るひとがいる。北村仁さんである。身長180センチ。手を広げて踊るとことさらに大きく感じる。「自分は浮いた子だったんです」北村さんは少年時代を振り返ってそう言った。いじめにこそ合わなかったが、あまり周りから相手にもされなかった。友達になにかを誘われた記憶もほとんどない。もっともそれが友達だったのかすらさだかではない。ふわふわと地に足がつかず、そわそわと落ち着かず。そんな自分があるんだかないんだかわからないような感じで、工業高校へと進んだが自分が働くイメージがまったく沸かなかった。工業高校と言えば就職するために通う高校である。実技を身に着け社会へ出ていくための学校である。だから卒業したら就職するのが当然だった。実際ほとんど全員が就職をした。ただ一部の、ほんの一握りの例外を除いては。

 

 

 

 

なんのために高校へ行っているのかわからなかった。ただ義務教育である中学を卒業すれば高校へ行くものと相場が決まっているから進んだだけだった。そこに自分の意志などなかった。工業高校へ進めばその先は就職するものと相場が決まっていたにも関わらず、北村さんは就職できなかった。それは、就職活動をしてできなかったのと違う。工業高校の先にあるような企業で働く自分が想像できなかったから、身体が動かなかったのだ。行き先を決め、安堵と不安を混じらせた同級生たちの顔を眺めながら、北村さんは自分の居場所はどこにあるのだろうかと考えた。

 

 

 

 

十八歳でフリーターになった。アルバイトをしていることは苦ではなかったが、そこが自分の居場所であるとは思えなかった。だからといってなにかしたいことがあるわけでもなかったし、天啓がふってくるようなこともなかった。ただ生活のためにアルバイトをやっていた。そんな折、バイトの同僚に誘われたのである。

 

 

 

 

「ねえ、一緒にダンスやんない? ダンスやってDA PUMPになろうよ」

 

 

 

めったに誘われない自分が誘われた。その上自分もDA PUMPが好きだった。北村さんは二つ返事でダンスを了承する。そして北村さんはストリートダンスを始めた。きっかけは些細なものだった。しかしそれが北村さんの人生の居場所を見つけることになるのである。

 

 

 

 

ストリートダンスは文字通り路上ダンスだった。駅前の広場で、街角で、ビルの空いているところで。ウインドウガラスや金属の反射を鏡代わりにして踊った。ダンスはまたたく間に北村さんを魅了した。ダンスを通じてひとがつながっていった。ダンスが上達すればするほどダンスに傾倒していった。しかし、楽しいばかりの時期を過ぎていくと現実が視界に入ってくる。ダンスで生計を立てるというのは夢のまた夢だった。そろそろ手に職をつけて働く必要がある。そんなことも考えてみた。まるで気乗りしない話だったが、仕方がない。それに当時付き合っていた彼女がそれを強く望んでいた。

 

 

 

「わかった。おれ、柔道整復師になるよ」

 

 

そう言った矢先の出来事だった。

 

 

 

「ねえ、一緒にニューヨーク行かない? ダンスコンテストに出ようよ」

 

 

 

北村さんはニューヨークへと飛んだ。

 

 

 

北村さんを誘ってくれたグループは手話をダンスに取り入れて踊っていた。手話ダンスである。その手話ダンスで好成績を収め帰国した北村さんは手話ダンスの可能性を感じていた。もしかしたら、これならダンスで食っていけるかもしれない。これなら仕事になるかもしれない。淡い期待が少し現実味をおびてきた。しばらくして手話ダンスのグループを離れてひとりになった。手話とダンスについて、仕事にするならもっとつきつめて意味を考えたかった。もしダンスに手話を融合させるならば、もっと手話を使うひとのことを知らなければいけない。あるいはろう者に限らずマイノリティと呼ばれるひとたちのことを知らなければいけない。北村さんは福祉関係の会社に就職をした。高校を卒業して、初めての就職だった。三十五歳になっていた。

 

 

 

 

そしてそのまま北村さんは会社人になった、わけがない。福祉の世界で現実を知り、様々なことを経験して会社を退職した。北村さんには新たな構想があった。だれもが楽しめるダンスを考えていた。

 

 

ストリートダンスに手話を融合させる。手話で歌詞を表現し、ダンスで音楽を奏でる。それが北村さんの考える手話ダンスだった。そのころすでに手話ダンスというものが世間にでてきており、手話ダンスのあり方も広がりをみせつつあった。そこで北村さんは自分の手話ダンスをユニバーサルデザインダンスと名付けた。UDダンスである。

 

 

 

ろう者も聴者も、照れ屋さんも引っ込み思案さんも、だれもが踊って楽しめるダンスを作りたいと思った。英語で歌うのを憧れるひとがいるように、手話という言語を覚えて手話ダンスに夢中になって、そうしているうちに今度はそれをひとに伝えたくなった。実際手話はダンスと親和性がよかった。手話による手の動きはダンスの動きに制限を加えることがあるけれども、それ以上に手話を活かすことでダンスに奥行きを与えてくれた。なによりUDダンスを習ったひとたちが生き生きと顔を輝かせている。手話という言語とダンスが合わさることで、ダンスだけを習う以上に得るものがあるのかもしれない。ろう者を意識して始まった手話ダンスはいつの間にか聴者を魅了しUDダンスになって、だれでもみんなが楽しめるダンスに成長している。手応えを感じているのは北村さんだけではない。世の中の人々がその可能性に気づき始めている。

 

 

 


 

参考

 

少数言語としての手話 斉藤くるみ 東京大学出版会 2007