2019年12月30日(月)

日本酒 多田 店主 多田修平さん

 

〒113-0031
東京都文京区根津2-15-12木村ビル

 

営業時間等はお問い合わせください。

電話:03-5809-0134

 

Facebook  @nezunihonsyu

Instagram  @nezu_nihonsyu_tada

 


これも新しい時代の形なのだなと思った。

料理人が自分の店を持つというのは、その多くの場合他店で長く修行を積んだのちに独立するという方法がある。ずっと時代を遡れば主人に認められて「暖簾分け」という形で独立するパターンもかなりあったろう。暖簾分けはすでに確立されたブランドを利用できるという点においてゼロ出発よりも有利であるが、そのブランド利用料を徴収するところもあるから一長一短だ。まあ、暖簾分けかどうかはこの際問題ではなく、料理人というのは長く修行してからの独立が当たり前だと思っていたのは大昔で、ほぼ最初から修行期間を経ずに自力で店を出す人たちが出てきたのが現代である。

 

東京メトロ千代田線の根津駅を降りて不忍通りから言問通りへ上野方面へ折れ、信号一つめの小路に入ればそこが「日本酒 多田」である。この界隈は通称谷根千と呼ばれる一帯で、文化的民度が高そうなエリアであると認識している。上野も公園をまたぐと駅周辺とはがらりと雰囲気が変わるのである。ちなみに東京に馴染みのない方のために書いておくと、谷根千は、地名である谷中・根津・千駄木の頭文字をとったもので、昔ながらの商店街と最近出店した小綺麗なカフェや雑貨店などが混在して立ち並ぶ観光名所になっている。とくに谷中に至っては通りを歩いているひとのほとんどは海外からのお客さんといって過言ではない。

 

その点根津にくると観光客の数はぐっと減り、極度に観光地化する前の谷根千の雰囲気が今もそのまま残っていて具合がよろしい。小さな寺がそこかしこに点在し、大きな土地を構える根津神社のつつじは有名である。その根津神社の真裏にはベーカリーミウラ。以前GRIT JAPANでご紹介したパン屋がある。まさに名店を育む街、それが根津なのだ。もちろん「日本酒 多田」も例外ではない。自分でやるという気概をもとに独学で料理を学び自分が信じる日本酒を出す。そんな店をやっているひとは一体どんなひとなのかと伺えば、店主の多田修平さんはかつてジャズミュージシャンを目指していた。

 

音楽の道は険しい。誰もかもが便利さを追求した結果、CDまで続いたパッケージメディアの時代は終焉を迎え、同時にアルバムを売って収入を得るというビジネスモデルも崩壊した。それでなくても音楽の道は険しいものだった。楽器によっては世界一になってさえそれ一本で食っていくのは難しいものもある。ジャズミュージシャンもまた同様だ。多田さんは音楽の道の難しさを身を持って体験し、バーテンダーになろうとホテルに就職する。ホテルではレストランに配属され仕事にのめり込んだ。単純に仕事が楽しかったという。接客業というのが多田さんの性にあっていた。このままホテル人生も悪くない、そんなふうに感じていた多田さんだったが、日本酒と出会うことで人生があらたな方向へと走り出す。それは二軒めの就職先となったホテルペニンシュラ東京だった。またもレストラン配属となった多田さんはその仕事場で日本酒の面白さを知ることになる。中国企業のホテルで日本酒の魅力に染まるというのはなんだか不思議な巡り合わせを感じるが、とにかく多田さんはそこで日本酒が面白いと興味を覚えたのだった。

 

では多田さんは日本酒に対してどのように興味を持ったのだろうか。日本には様々な味わいの日本酒がある。しかしその奥深さというものも多田さんにとっては入り口でしかなかった。多田さんの興味は、どんなひとが日本酒を作っているのかに注がれていった。「結局、材料である米は移動可能だし製法も再現可能なんですよね。何が日本酒に個性を与えるかといったら、それは作る人なんです」と多田さんは言う。そこに気がついてから多田さんは銘柄よりも誰が作っているかということのほうが大切になった。そして作り手の個性に惹かれ酒蔵を訪れる中で、人生の舵を切る新たな発見をする。それは自分と同世代の作り手たちだった。

 

 

上意下達のサラリーマンだった多田さんにとって、自分と同世代の若者たちが自らの意志で物事を決定し、酒造りをしていることに衝撃を受け同時に羨ましくも思った。現実には酒造りはそれほど甘いものではないし、酒蔵の子息たちもそれほど自由になったわけではなかろう。それでもなお当時の多田さんにとって彼らの振る舞いは大空を優雅に舞う鴻鵠のように見えたのだ。しかし、その時点ではまだ独立に向けて踏み出してはいなかった。ホテルの仕事はやりがいもあり、不満もなかった。独立してみたいという思いはまだホテルを辞めるという理由にはならなかった。

 

多田さんの独立への決心を決定づけたのは2011年三月十一日に起こった東日本大震災である。この震災を期に人生のあり方を見つめ直したひとは多いだろうが、多田さんもまたその一人だった。人生の一回性というのを強く意識して、失敗してもいいから自分のやりたいことをやってみようと独立を固く心に誓う。「失敗」。日本は誠に失敗に厳しい社会であると思う。それは社会のシステム自体が失敗を許さないだけでなく、日本人の心性にも深く結びついているように感じることがある。失敗を許さない国ニッポンについてここで言及するつもりはないが、そういう風土の中で失敗を恐れずに挑戦する若者がいることは素直に嬉しいことである。

 

 

ホテルを退職し、北千住の居酒屋七色(なないろ)で二年間働いて飲食店の仕組みを学び、ついに「日本酒 多田」をオープンさせた。2015年の冬だった。もともと料理が趣味で得意だったが、ひとに出すとなれば話が違う。多田さんが料理に本腰をいれたのはなんと開店してからだというから度胸がある。これぞと思う店があれば食べにいき、見て覚え味を確かめる。料理の手引はときにYoutubeに頼ることもある。Youtubeが先生だなんてと思ったあなたはもはや旧式かもしれない。今や技の数々は門外不出ではない。むしろ嬉々として世界に公開する時代なのだ。そうして多田さんは持ち前のセンスの良さも相まって料理の腕をあげた。

 

 

日本酒の美味しさを多くのひとに味わって欲しい。日本酒の良さを広めたい。その思いから店を始めた多田さんは、自ら手掛ける料理のレベルが上がっていくに従って日本酒一辺倒だった考え方が変わり始めた。「未知のものに触れ、それを知る喜びを感じてほしい」多田さんはそういった。これまた大胆な発言である。しかし独学で自分の店を開くのだからこのくらい大胆でなければ務まらない。そしてそれを言えるだけの自信がついてきたということの現れでもある。自分の店には新しいものがある。それはどこにもないもので、ここでしか体験できないものである。それを感じに来てほしいというのだ。

 

その自信の影に、多田さんはひとつの不安を口にした。世の中、こちらが提供すれば提供するだけ消費されてしまう。それは驚くべきスピードで、あっという間に食いつくされてしまう。人々はすでにあるものを消費することに慣れすぎていて、それはある意味コンシューマー(消費者)の名に恥じぬ行為であるが、そんなことで本当にいいのだろうか、と。それはサラリーマン時代には考えなかったことで、一城の主となった今深く考えさせられる問題となった。

 

 

当初こそ、こんな日本酒はどうですかこんな酒がありますよと勧めていたが、一口飲んですべてをわかったように言い、もっと違うのないのもっと新しいのないのと客は迫った。気がつけばMOREMOREWE WANT MORE!とプラカードを持った群衆に取り囲まれその殺気立った消費エネルギーに多田さんは恐怖した。そこで今までのようなやり方は一切やめることにした。「日本酒 多田」に来たら未知のものにふれる喜びを感じてほしい。自分で発見する楽しみをしってほしい。それはなにも教えないという意味ではなくて、与えられるがままではない何かを見つけて帰ってほしいということだ。実際多田さんの楽しみはお客さんと会話することである。もともとホテルでの接客業にやりがいを感じていただけに、お客さんとのおしゃべりを楽しみにしているのは誰よりも多田さんなのだ。

 

若い人が酒を飲まない。多田さんの心配ごとである。多田さん自身も十分若いが、多田さんのいう若い人というのは二十代を指す。今二十代が本当に酒を飲まない。その理由を探ればきりがないが、とにかく酒離れは深刻である。将来のお客さん候補の減少を心配しているのではない。ただ酔うために非ず、作り手が魂を込めた本当に素晴らしい日本酒を若い人たちにこそ知ってほしいという気持ちがある。味わう酒があることを知ってほしいだけなのだ。

 

 

 

「だから自分が若者でも来られるリーズナブルな値段で本当にいい日本酒を飲める店を続けていきたいんです」