2019年7月8日(月)

柳ばし大黒家 丸山雄三さん

 

 

東京都台東区柳橋1-2-1

TEL:03-3851-4560

営業時間:11:30〜14:00、17:00〜21:00 日曜・祝日定休 予約制


東京都台東区柳橋。柳橋は花柳界で隆盛を極めた土地だが、今はその面影はない。花柳界というのは、芸妓屋、遊女屋が集まっている区域(ウィキペディア)のことをいい、花柳という呼び名は「東京花街・粋な街」上村敏彦著、街と暮らし社によれば、唐代初期の詩人王勃(おうぼつ)が詠んだ詩に、美しさを形容するために「紅花緑柳」という表現を使ったのが語源とされる、とある。

 

 

花柳界(花街ともいう)は、芸妓置屋、待合、料理屋の三つがひとつのシステムとして成立しているため、三業地とも呼ばれる。また待合と料理屋をあわせて料亭と呼び、二業地という言い方をすることもあるようだ。

ちなみに芸を披露する芸妓と春を売る遊女は明確に区別されており、互いに領海侵犯をしてはならないという厳格な決まりがある。現代では芸者というと両方を混同しているひともいるかもしれないが、そうではないということだ。また芸者という呼び方はもともとは男芸者を指す言葉で女の芸者はわざわざ女芸者と呼んでいたが、次第に女芸者が増えてきて人数的立場が逆転すると、芸者は女芸者を指す言葉となり、今度は男のほうが男芸者と呼ばれるようになったそうである。

 

柳橋の花街としての繁栄は江戸時代後期より始まった。その繁栄の影には吉原の移転があったようである。吉原はもともと中央区の葭町(あし町)の葭原だった。現在の人形町と浜町一角にあたり葭や葦が生い茂っていた沼を埋め立てて、周囲に壁を巡らせて遊里を作ったとされる。葭(あし)という言い方が縁起が悪いということで吉(よし)の字が当てられてのちに吉原と呼ばれるようになる。この土地が明暦三年の大火で焼失した後に浅草に移転して現存する吉原へとつながる。

 

柳橋は三鷹市井の頭池を水源とする全長二十五キロの神田川の最後に架かる橋である。橋をくぐった神田川はすぐさま隅田川へと注ぎ込む。水路が主要交通網だった江戸時代において、柳橋は浅草に移転した吉原へと通うための要所として栄えたのである。明治になってからも柳橋は新橋と人気を二分する花街として繁栄を極めたとあるから、いつの時代も交通の要所というのは重要なのである。現在では花街の面影を探す方が難しいが、神田川河口両岸に停泊する何艘もの屋形船がその最後の片鱗かもしれない。

 

吉原への出発点ということに加えて、柳橋の繁栄を支えたのが両国の川開きとして行われた花火大会である。花火大会は大飢饉とコレラによって多数の死者を出した一七三二年、幕府は死者の霊を鎮めるために催した水神祭が起源と言われている。その際に花火を提供したのが鍵屋であり玉屋だった。おなじみ「かぎや〜」「たまや〜」の掛け声はここから始まっている。ちなみに創立は鍵屋のほうが古く、玉屋は鍵屋の暖簾分けであるが玉屋の花火のほうが優れていたため、「たまや〜」の掛け声のほうが多かったようだ。いまだに花火といえば「たまや〜」なのはその名残りと言える。しかし現実は玉屋は一代限りで廃業(火事を出して広範囲を焼失させたため江戸から追放された)したのに対し、鍵屋は現存する日本最古の花火会社であるというからわからないものだ。消えてなおそのブランド力をもつ玉屋がもし火事を出さずにいたら、鍵屋の歴史もまた変わっていたのかもしれない。

 

 

さて、吉原への好アクセスポイントであることと、隅田川の眺望と両国の花火を有して繁栄した柳橋の花柳界であったが、時代を経るにしたがいその勢いを失っていく。隅田川は水質悪化により悪臭を放ちはじめ、極めつけはカミソリ堤防の異名をもつ防波堤が建設されたことで隅田川が完全に視界から消えたことだった。加えてそれまで柳橋に通っていた客のニーズが変わり銀座のクラブなどへ流れたことで集客の減少は歯止めがかからなくなった。そしてついに一九九九年柳橋花街最後の料亭だったいな垣が閉店し、柳橋花柳界は幕を閉じたのである。

 

 

 

柳橋の袂には橋の由来が書かれている。そこに正岡子規の句が添えられていた。

 

 

 

春の夜や女見返る柳橋

 

贅沢な人の涼みや柳橋

 

 

どちらも柳橋花柳界が賑わっていた時代を彷彿させる句である。そしてそのどちらも今は昔の物語である。

 

話は天ぷらに変わる。

天ぷらはポルトガル語のTemperoが語源と言われている。ポルトガルの宣教師により小麦粉をつけて油で揚げる西洋式の調理法が伝わったのが由来と言われているが、日本ではそれ以前から米粉など素材に衣をつけて揚げる料理法があったことから、小麦粉を衣に使う天ぷらはポルトガル料理とは異なる日本独自の道を歩んでいくことになった。

 

 

天ぷらはもともと屋台で食べられた江戸庶民の食べ物だった。寿司、そば、天ぷらといえば江戸三昧と呼ばれる江戸っ子の郷土料理である。しかもその頃の天ぷらは串にさしてあって手軽に食べられる工夫がされていたという。また現在の串揚げのように共用のつゆにつけて食べていた。さて江戸時代でも二度漬け禁止は言われていたのだろうか。

 

天ぷらが屋台料理だった理由のひとつに江戸幕府が室内での調理を禁止したということがあるようだ。油を高温に熱する天ぷらは火事の原因になりやすかった。火事と喧嘩は江戸の華などと言うほど江戸時代は火事が多い時代だった。紙と板切れのような家屋はそれはよく燃えたことだろう。天ぷらの調理が屋内禁止というのはごく当然の成り行きだったのだ。幕末になってようやく天ぷら屋は屋台ではなく店舗を構えるようになっていく。すると、それまで庶民の食べ物であった天ぷら屋のなかに高級路線にシフトする動きが生まれた。お座敷天ぷらの登場である。

 

 

熟練の天ぷら職人が座敷で客の目前で天ぷらを揚げる様式のことを、お座敷天ぷらと呼ぶ。通常はコース料理になっているが、客の注文に応じることもあるようである。柳ばし大黒家はそんなお座敷天ぷらのひとつである。

 

JR総武線各駅停車の停車駅である浅草橋駅を降りるとそこは人形とジュエリーパーツと衣料品問屋の街である。久月、秀月、吉徳など雛人形や五月人形で有名な企業が軒を連ね、一方では皮革の小売など問屋兼小売屋がならぶ不思議な空気感ただようエリアである。駅名である浅草橋は柳橋の一つ上流に架かる橋である。上部にアーチがないため車に乗っていると言われなければ橋だと気が付かないひともいるかもしれない。しかしさすがに徒歩で橋だとわからないひとは少ないだろう。というのも、神田川の切り立ったコンクリート護岸に寄り添うようにして何艘もの屋形船が並んでいる風景はこの土地独特のものであるからだ。

 

浅草橋から河口にむかって見れば緑色に塗られた柳橋がよく見える。橋の色が緑なのはもちろん紅花緑柳の緑柳にかかっている。それは鉄橋になってからもなお、いや鉄橋になったからこそ少しでもその風情を伝えようと緑に塗られたに違いない。浅草橋と柳橋の間の両岸にはご丁寧に柳が植えられているが、こちらはどうもとってつけた感がいなめない。どれも細くひょろひょろで、ある木などは葉が落ちきって今にも枯れそうだった。土地のスペース上この先も木は大きくなれそうになく、放って置いたらそのうちみんな枯れてしまいそうですらある。何本も植えるというよりは、一本だけ大きな柳を植える場所を確保して育てたほうがよりシンボリックになると思うのだが、考えはひとそれぞれである。

 

 

 

神田川左岸(右岸左岸は上流からみていう)を歩く。隅田川のカミソリ堤防ほどではないが、神田川も高い堤防に阻まられ道路側から川を見下ろすことはできない。また右岸にはある遊歩道(とっても狭い!)も左岸にはないため、もし川を眺めながら歩きたいのなら右岸を行くしかない。川沿いはマンションやら雑居ビルが立ち並ぶ。いよいよ柳橋に届こうかというその一つ手前にコンクリート打ちっぱなしの近代的な建物がある。そこが柳ばし大黒家だ。

ところで、その二軒手前に和菓子屋 柳橋梅花亭がある。ここは以前GRIT JAPANで紹介した神楽坂梅花亭の初代が修行を積んだ店である。同名だが資本的な繋がりはなくいわゆる暖簾分けをした本店にあたる。柳橋梅花亭と柳ばし大黒家は無関係(まるきり関係ないとは言わないが、その立地が隣り合ったのは無関係という意味)だが、GRIT JAPANの輪を通じて縁を感じないわけにはいかないだろう。

 

明治二十年(1887年)浅草に大黒家が創業される。もともとは蕎麦屋として始まった店だという。ところが供出する天ぷらの評判がよくそれなら天ぷら専門にやろうと天ぷら屋になった。浅草大黒家は創業者の長男が跡取りとなり、次男が昭和二十三年(1948年)に柳ばし大黒家を開店する。

 

 

1945年の東京大空襲によって柳橋一帯も焼失したが、戦後の復興を朝鮮戦争による朝鮮特需が押し上げ、柳橋花柳界の戦後の最盛期となった。当時の好景気をガチャマン景気または糸へん景気と呼ぶ。朝鮮特需で一番恩恵を受けたのは繊維業界であった。その織機をガチャンと織れば万の金が生まれることからガチャマン景気と言われ、繊維の糸へんにちなんで糸へん景気などと言われた。

 

柳ばし大黒家がオープンした昭和二十三年はくしくも両国花火大会が復活した年でもあり、柳橋花街は多くの芸者が行き交い、料亭が数多くひしめいた。戦後の活況はまさに江戸時代から続いた柳橋花柳界の最後の打ち上げ花火だった。柳ばし大黒家は最高級天ぷらを振る舞うお座敷天ぷら屋としてその地にふさわしい格式を持ち食通たちの通う店として評判を確固たるものに築いていった。

 

 

柳橋花柳界の凋落は前述した通りである。新橋と二分する花柳界の一等地として鳴らした柳橋の姿はもうそこにはない。しかし柳ばし大黒家は築き上げた評判が新たな客を呼びその客がまた新しい客につながって花柳界なき後も柳橋の地に根付いた。現在三代目になる丸山雄三さんがその腕を振るう。

 

おおよそ店らしくない店構えの玄関を入ると個人宅のような作りでここが本当に天ぷら屋なのかと俄に疑ってしまう。ところが階段を上がって二階にでるとその様相は一転する。川沿いの部屋は待合室とされ眼下に屋形船が停泊する神田川を見下ろせる。平屋なら得られぬ眺望も堤防よりも高い二階なら可能というわけだ。この待合室で天ぷらの準備ができるのを待つ。また食後のデザートもこの待合室でいただけるという。なんとも贅沢で粋なはからいだ。子規の句、「贅沢な人の涼みや柳橋」をそのまま再現するようなもてなしである。

 

天ぷらの準備ができると座敷に通される。そこはちょうど扇を広げたようなカウンターがあってその内側に揚げ場があり丸山さんは客に対峙する格好で天ぷらを揚げる。寿司屋がカウンター越しに寿司を握るのと同じ様子である。丸山さんは手早くタネを衣にくぐらすとその動作の延長線上に油の中へと投入する。熱したごま油がシュワッと音をたて、余分な衣が表面に散る。散った衣はすぐに油から取り除かれる。一分もしないうちに油の音がピキピキパキと変化する。丸山さんは箸で硬さを知り音で揚がり具合を確かめてさっと油切りへと天ぷらを移した。

 

 

タネによって揚がり時間は異なるが、撮影のためにご用意頂いたものは短いもので数十秒、長いもので二分程度だった。つまりあっという間に出来上がる、そんな感覚である。わたしは右目でカメラのファインダーを覗いて撮影し、左目で丸山さんの行動を伺う。すると丸山さんの所作にまるきり隙きがない。あるときは流れるような動作が伴い、あるときはぴたりとその動きが止まる。その止まっているときの様子ときたらまるで鷹が木のてっぺんで眼下の獲物を睨むが如きである。次に動いた時、鷹が獲物を咥えて悠々と飛び去るように完璧な揚げ上がりの天ぷらが鍋から移される。ところがこの完璧に見えた揚げ上がりでさえ、丸山さんに言わせれば六十点というから天ぷらに対する要求の高さは並大抵ではない。それを丸山さんは「私にはこれしかありませんから」と謙遜していう。

 

 

天ぷらはシンプルな料理だ。新鮮な材料に新鮮なごま油。衣は水と卵と小麦粉を合わせたものだ。このような少ない材料ゆえか、その違いは作り手の技量に追うところが大きい。衣の硬さ(それを丸山さんは濃いとか薄いと表現する)、食感、そしてもちろん味わい。単純な材料から生まれる無限の組み合わせの中で最高を毎日毎日追い続ける。そうしたことが苦でなくむしろ自分には向いているというのだから丸山さんにとって天ぷら職人は天職なのだろう。

 

撮影後、撮影に使用した天ぷらを頂いた。すでに冷えていたが、普段食べている天ぷらとは明らかに違う味がした。なるほど衣が素材を何倍にも引き立てるのだなと思った。丸山さんが衣の出来が全てと言っていたのが腑に落ちた。食べていると丸山さんが目の前でキスを揚げはじめた。眼の前に揚げたてのキスが出される。役得である。美味い。冷えた天ぷらも美味しかったが、揚げたては格別だった。月並みな表現だが、こんな美味い天ぷら食べたことがない。タネと衣どちらが引き立て役なのかわからなくなる。しかしこの際それはどちらでもよい。両者が合わさってこそ最高の天ぷら料理なのだ。これが丸山さんの人生をかけた天ぷら料理なのだ。

 

参考文献

東京花街・粋な街 上村敏彦著 街と暮らし社 2008

地球の歩き方 東京六花街 芸者さんに教わる和のこころ 浅原須美著 ダイヤモンド社 2007

Wikipedia