2020年3月6日

仲買人 山利商店 三代目 宮間透仁さん

 

営業所 千葉市地方卸売市場 千葉市美浜区高浜2-2-1 市場の中にお店があります(一般の方買い物自由です)

    TEL:043-248-3404

 


市場と聞いてどんな市場を想像するかはあなたが今置かれた状況によって違うだろう。市場ときいて金融市場というひともいるし、フリーマッケットを思い浮かべるひとだっているはずだ。ここでさす市場はすべて魚市場のことである。魚市場は魚河岸とも呼ばれることがあるが、もともと河岸とは江戸での名称であり、大阪では濱(はま)、京都では川端と呼んでいた。意味は同じで物資の陸揚げ地を指す。今でこそ市場といえば豊洲のような卸売市場のイメージが強いが、かつてはそこかしこに近隣の住民たちが開いた市場(野市)が点在していた。そうした野市で消費者は食物を直接求めていたという。

 

そうした野市に対して、問屋を集約して発展した卸売市場というのは販売対象に一般消費者ではなく、仲買人を相手に行う。仲買人は卸売市場で買い求めた商品を自らの客である鮮魚店や飲食店、或いはスーパーなどに売ることで利益を出す仕組みである。山利商店三代目を継ぐ宮間透仁さんは千葉地方卸売市場に店をかまえる仲買人である。が、同時に新世代の仲買人でもある。

 

仲買人不要論というのを聞いたことがあるだろうか。中間マージンを取る仲買をなくせば、より安くものが手に入るという理由である。それは同時に卸売市場不要論を唱えることにもなる。競りは仲買人相手に行うもので、その仲買人がいなくなれば卸売市場はその立場をなくす。そして卸売市場誕生以前の野市へと回帰していくしかない。その仲買人不要論を突き詰めたのが「産直」である。産地直送とか産地直売、産地直結と言われる商行為は、仲買人おろか市場をすっ飛ばし従来の流通網をすっ飛ばして生産者と消費者を直に結びつけることで同じものをより安く買おうという精神から生まれている。今でこそ、産直といえばなんとなく新鮮なイメージだけが雲のようにふわふわと浮いているが、産直の真の目的は「より安く」にほかならない。

 

 

仲買人不要論というのはビジネスを成功させるための定説のように流布していて、大学で経営学を学んだ宮間さんもまた家業である仲買はもはや時代にそぐわぬ不要ものという認識でいた。西洋とくにアメリカで広く開発された経営学・経済学にとって、日本の卸売市場に関わる職種が複雑に過ぎ、仲買など中間マージンを搾取する存在にしかみえなかったのだろう。そうした学問に触れれば、日本の卸売市場がいかにも時代遅れに見えるにちがいない。それはある側面では的を得ているが、それだけが全てではないところが人間社会の面白いところかもしれない。

 

山利商店二代目であり、宮間さんの父親は宮間さんに家業を継ぐことを強要しなかったという。それは沈みゆく地方卸売市場の現状を肌で感じていたからであり、決して仲買人不要論に基づいたものではない。卸売市場は、豊洲のような中央卸売市場に物資が集中すると同時に地方卸売市場は衰退し続けている。かつての活況を知る父が地方卸売市場の将来を案じ、息子に別の職業をすすめるのは不思議なことではない。実際、つい先日(2020年初頭)もまた二軒の仲買人が千葉地方卸売市場から去った。廃業だった。

 

 

だから宮間さんは仲買人になるつもりはなかった。食べることがなによりも好きだったから、料理人になろうと思った。市場に精通し、良い食材を手に入れるルートを作ることは将来料理人になったときのアドバンテージになると思い、足立の卸売市場に就職した。山利商店の息子と言われたくなくて、父のコネクションがない市場を選んで就職した。もっとも面接でその事実が隠し通せるとは思えないが、少なくとも父の手の届かぬところで働きたかった。

 

 

漁港で撮影しましょう。そう宮間さんに提案されて総武線稲毛駅に集合して車で南下した。いつもいく漁港があって今日はそのうちの二軒に行くという。房総半島の内陸を行く高速道路から漁港のある金谷へでると目の前に海が出現して風景が一変する。海が見えるのと見えないのではこうも風景が違うものかと久しぶりに見た海に感動したが、あいにく風が強くうねる波の先が白く泡立っている。千葉の金谷漁港と言えば観光スポットとしても有名な漁港であるが、目指す漁港はこれが漁港ですと言われなければわからないほど小さく、知らないものには入り口をあてることすら難しい。それで私はふと疑問に思った。おそらく同じ疑問を持ったひとも多いだろう。「漁港って一つじゃないんですか?」

 

例えば金谷漁港のように、漁港というのは、その地域にひとつドンと設置されているものだと思っていた。そしてそこに周辺で漁をする船が続々と集結するイメージである。感覚としては、卸売市場に物品が集まるがごとく、ひとつの漁港に船が集まる場所、それが漁港だと思っていた。なんの知識の拠り所があるわけではないが、漠然とそういうものだと思っていたのだ。そして案外私と同じように考えているひとは多いのではないかと思う。ところが、現実は違った。実際はこうである。海岸に沿って大小様々な漁港が何十と並んでいる。それは実際に隣接している場合もあるし、少々距離をあけたところにあることもある。いずれにしろ漁港地帯は漁港だらけだった。そして、それぞれに出入りする漁師も当然違う。だから、広義で見れば東京湾という同じ漁場で漁をしているのだが、わずかな違いが漁獲量に影響し、捕れる魚の種類さえ違う。さらにもっとも重要な違いは、捕れる魚の質が違うのである。漁師の腕という数値化できない要素が多分に絡んでいるのである。だから、いい魚を求めるにはいい漁港を知ることが大切である。こっちの漁港は豊漁なのに、隣の漁港は不漁なんてことも少なくない話だから、魚を求めるもの同士、漁港情報交換は欠かせない。宮間さんもそうしたコネクションを活用し、また自ら開拓をしてこれぞと認める魚を日々探している。

 

 

本来市場にやってくる魚を買うのが仲買の仕事であるが、宮間さんのような新世代の仲買は自ら漁港へ赴き、自ら魚を仕入れている。これは仲買人による市場飛ばし行為である。しかし宮間さんは漁港で魚を選びこそすれ、直接購入することはない。然るべきルートを通して、市場を通して山利商店に入荷させている。それによって市場に落とすお金が増える分だけ魚が高くなってしまうが、宮間さんは安さを求めて産直がしたいのではないのだ。自分の目で見て選んだ上質の魚が欲しいのである。

 

 

単純にその場で仕入れてしまえばその分だけ利益がでるのはわかっている。しかしそれをしないのは地方卸売市場の未来を見据えているからである。ただでさえ寂しくなりつつある千葉地方卸売市場である。そこへ自分が産直をすれば、市場の陰りに拍車をかけるようなもの。大事なのは自らの利益のみを追求するに非ず、市場と共存しともに発展していくことなのだ。助け合う。支え合う。融通し合う。かつて日本のどこにでも見られた風景である。宮間さんはそれこそが今の日本には必要なものと語気を強めた。

 

 

足立の市場に就職した宮間さんは仲買の面白さに魅了されてしまう。父はこんな面白いことを毎日やっていたのか。家業はかくも素晴らしいものだったのか。料理人になるための足がかりとして始めたはずが、その料理人になることなど吹っ飛んでしまった。それほどに仲買の仕事は興味深く面白かった。仲買の面白さとは何か。それは一言で言えば反応だろう。宮間さんの客はおもに料理屋である。魚を売ったさきですぐさま反応が返ってくる。喜ばれれば最高だし、首を傾げられれば反省する。毎日が真剣勝負だが、それがまた楽しい。あのひとはこんな魚が好きなんじゃないか。この魚はあのひとだったら喜んでくれる。そう思いながら仕入れをし、的中したときの喜びはなにものにも代えがたいものだった。

 

 

世の中には仲買不要論というのがある。中間マージンを取る彼らをなくせばより安くものが手に入るからである。ではもし仲買人がいなくなったら、一体だれが魚の目利きをするのか。誰が魚の良し悪しを見分けるのか。そう書くと世の中の仲買人みんなが目利きであるかのように聞こえるが、実は違う。魚の良し悪しを見分けるのは経験知であり、先天的才能であり、好奇心であり、なによりもいい魚をお客さまへ届けたいという気持ちの強さである、と私は思う。宮間さんは魚に関してはまったく好奇心あふれる男で、より良い魚を届けたいという思いに加え、まだだれも食べたことがないような魚を見つけたいと日々探し歩いている。実際海にいる魚(に限らず生き物)はすべて食べられるに相違ないと思っている。魚に対する愛を語りだしたら限りがなく、心の底から魚が好きなのである。したがって自然と魚への審美眼が備わった。つまり宮間さんは目利きだ。宮間さんのような目利きがいるから料理屋は安心して魚を任せられ、料理に集中できるのである。こうした仲買人は不要などころか必要不可欠な存在である。

 

 

どこかでトドの肉は美味いという話を宮間さんは耳に挟んだ。トドですかと聞けばとどのつまりトドですと言う。実はトドの肉はネットで売っている。しかしそのレビューはどれもとても食えた代物じゃない、ネタにしかならないといった類のものばかりだった。ものは試しと買ってみたが、口にいれたとたん吐いた。臭くてとても食えなかった。では美味いトドの肉はどこにあるのか。それから一年以上探してついに羅臼にいるハンターが仕留めたトドが美味いというところにたどり着いた。トドの肉が美味くなるか不味くなるかは仕留めたあとの処理方法のいかんに関わっている。適切な処理を施して解体されたトドの肉は「とろけるような馬刺し」と宮間さんは表現した。トドは害獣駆除の名目で年間の狩猟数が決まっており、美味いトド肉は北海道でも限られたひとの口にしか入らない。北海道と言えどおそらく札幌のような都市部に暮らすひとたちはトドの肉など食べたことがないだろうと言う。それを見つけ出して仕入れるのだから執念というよりない。宮間さんの食に対する探究心の賜物である。

 

冒頭に宮間さんは新世代の仲買人だと書いた。それは従来の仲買という行為を超えて自らが魚を求めて漁港に足を運び、常に新しい発見を探しているからである。三十代前半にしてすでに目利きであり、この先年齢を重ねるにつれてさらにその眼力は磨かれるに違いない。宮間さんは魚愛の深い仲買人であるが、同時に自分の仕事を通して日本の食卓を豊かにしたいという思いをいつも心に持っている。ひとりでも多く味のわかる、質のわかるひとを増やしたいのだ。自分には関係ないとか、自分にはわかりっこないといってファストフードばかり食べているそこのあなたにこそ、一度は宮間さんの選んだ魚を食べて欲しいものである。

最後に、卸売市場は一般人でも自由に入って買い物ができます。近くに市場があるひとは、ぜひ足を運んでみてください。

 

 

 

参考文献

 

市場の語る日本の近代 中村 勝著 そしえて文庫 1980