2020年7月8日

舞台俳優 蒼井 染(そめ)さん

 

オフィシャルブログ

https://ameblo.jp/pivotal-modest/

   

俳優とはなにか。「日常の様々な動作を、意識して、自由に組み合わせて、何度でも新鮮な気持ちで演じることができる」(演技と演出 平田オリザ 講談社現代新書 2004)とある。舞台俳優ともなれば同じ演技を何十回も演じ、毎回そこに新鮮さを持ち合わせていないといけない。公演初日と最終日で演技が違うのはだめである。終わりに近づくにつれて下手になるのは論外だが、だんだんこなれて上手くなってきましたでもそれはプロの俳優とは言えない。なぜなら観客はたった一度の公演しか見ないからである。たまたま観た日がよかったとか、今日はあまり良くなかったから運が悪かったという偶然に客は金を払っているのではない。やってるうちに上手になって最終日が最高ですというなら、最終日しか観に来るひとがいなくなる。観客はまるで映画を観るようにいつ観ても同じクオリティであることを期待しているから日にちを選ばずに安心してチケットを購入することができるのだ。だから演劇というのは、品質の安定性という点においていうなれば農作物よりも工業製品に近い。

 

 

演劇が工業製品に似ているというと抵抗を感じるかもしれない。それは演技とは役になりきった感情表現という印象を抱いているせいである。ところが、このなりきるという言葉の意味が、一般人とプロの俳優とでは多少意味が異なるのである。私を含めた一般のひとにとってそれは極端に言えば憑依に近いと考える。役者であることを忘れてすっかりその人物として(舞台の上で)生きる、それがなりきるの意味だと思っていないだろうか。実際それはメソッド演技法と呼ばれ、表面的な形式主義だった演技手法とは違う新しい演技法として1940年代に誕生している。それはキャラクターに設定された人物像、性格、人生を俳優が擬似的に追体験することでより自然な演技を求めるものであった。通常私たちがなりきると言った場合は、このメソッド演技法に基づいた演技のことを指していると言える。

 

ところが、プロの俳優がなりきると言った場合は、メソッド演技法の限りではない。俳優が演技をするとき、私たちが普段意識しないで行動している何気ない動作一つ一つに意味を持たせている。例えばコップの掴み方ひとつ、椅子の座り方ひとつに意味を作る。私が広告を作っていたとき、多少ストーリー仕立ての映像というのはよくあることで、俳優さんたちとの仕事も少なくなかった。そのときこの紙はどのように取ったらいいですかとか、コーヒーカップのとり方について質問されることがよくあった。映画や演劇と違ってほとんどキャラクターディスクリプション(役柄設定)などない広告でも彼ら俳優は動作一つ一つに意味をもたせることで文字通り「なりきって」いたのである。そして、意識的に組み合わされた動作によって演技が実に自然に見えるのだ。自分を客観的にみつめ、すべての動作を意味的に理解することで寸分違わない演技を何度でも繰り返すことを可能にしている。これを傍から見ればなりきっているようにしか見えないのであるが、明らかに憑依とは正反対であり、メソッド演技法とは異なったなりきり方である。

 

 

 

繰り返し同じ演技ができるという能力はなにも観客に対してだけ必要なのではない。演劇における練習や、撮影ものにおける本番で他の俳優のミスによりやり直すという状況は何度も起こる。その時OKがでるまで何度も同じセリフを繰り返さなければならないが、当然これも毎回同じであることが求められる。俳優がどのような演技法を用いようと、結果的にいつも同様であることが大前提であることだけは変わらない。そしてそれができるひとこそが、プロの俳優であると蒼井染(あおい そめ)さんは言う。

 

 

 

2020年三月初旬。私は蒼井さんとお会いするために池袋に来ていた。普段あまり来ない土地だから、女優さんと会うというのに気の利いたカフェなど知らず駅ビルに入るどこにでもある店で待ち合わせることになっていた。ほどなくして蒼井さんが登場する。なんと飾らないひとなんだろうと思った。外見的な装飾の話ではない。蒼井さんは相手を値踏みすることもなく、言葉に含みをもたせることもなく、率直だった。このひとは本当に真っ直ぐなひとであるというのが私の第一印象である。

 

 

映画ハリーポッターを観て子どもたちが作り出す世界の大きさに感動し、演技に興味持つ。これをいうと笑われるが本当なんですと蒼井さんは照れくさそうに言った。蒼井さんの生まれ故郷である茨城県にあったプロダクションで演劇を始めると増々演劇の虜になっていった。高校進学時に演劇の道に進みたいと願うも両親の大反対にあい普通校へと進む。しかし捨てきれない演劇への想いは常に蒼井さんの胸の底でくすぶっていた。高校を卒業して企業に就職したが、これは自分の生きる道ではないという思いは日増しに強くなっていった。会社を辞めたいと言えば両親から反対されるのは目に見えていた。辞めて演劇の道に進みたい。東京にいる演劇仲間が来るならおいでと呼んでいる。行きたい。東京へ行きたい。東京へ行って演劇を学んでみたい。就職して一年後、蒼井さんは会社を辞めて東京へ向かった。すべては事後報告で。

 

将来俳優になりたいと言えば親はもとより友人たちもたいていやめたほうがいいと言う。ときには俳優業を生業にしている先輩たちでさえやめたほうがいいよなどとアドバイスめいたことを言う。蒼井さんの両親も例外ではなかった。とりわけ父親の怒りは凄まじく、二度と家の敷居をまたいではいかんと勘当同然だった。しかし蒼井さんの決心は揺るがなかった。知り合いのつてをたどり小さな舞台にあがり少しずつその知見を深め、経験を蓄積していった。それにしても、これほどなることを喜ばれない職業も珍しいのではないだろうか。多くの人は、俳優業だけでは十分に暮らしていくことができないことを主な理由にあげるが、それが一体なんだというのだろうか。それを理由に本人が俳優業を選ばないというのならわかる。しかしそれを他人が言うのはおかしい。親が子に演劇の道へ進むことを反対するのは子どもに金銭面で安定した人生を送ってほしいと願うからであるが、これはよくよく考えると、回り回って親である自分が安心したいと思っているからである。しかし例え金銭面で安定した職業についたとしても、精神面で不安定になるひとは後をたたない。どちらも両立できるに越したことはないが、稼げないから俳優業はやめておけというのはいささか結論を急ぎすぎであるように感じる。

 

日本において俳優業の社会的認知度が低いことについて、名乗ればだれでも俳優になれることが問題だと蒼井さんは言う。例えば学位を取得している必要があるとか、国家資格があるとかある一定の基準をクリアしなければ俳優にはなれない制度があれば、もう少し俳優の社会的地位も上がるのではないか。どのようなかたちであれ簡単には名乗れない仕組みづくりが必要であると蒼井さんは力を込めていった。実際きちんとした基礎訓練を受けた俳優とそうでない俳優とでは演技の深さに明らかな差が見て取れるという。それは蒼井さん自身が劇団俳優座の養成所で過ごした三年間から得た確信だった。演技は実に奥深く多彩であり極めて技術的であった。養成所では辛いこともたくさんあったが、もっとも充実した三年間だったと蒼井さんは振り返る。そして、そこで学んだ基礎が現在の蒼井さんの自信につながっている。今の自分があるのはあの三年間のおかげであると胸を張る。

 

 

演劇や映画などで演技をするということは、他人が考えたセリフをあたかも自分が思いついたかのように自分の言葉として話すということである。他人が考えたセリフというのが重要で、例えば猫をかぶるとか、嘘を付く、ごまかしのために偽りの自分を演ずるといった一般的に演技という言葉があてられるものとは一線を画す。なぜならそれらは自分で思いついた言葉であって、自分自身から発露したという点において本心を語るのと差異はないからだ。だから日常生活で「あのひとは演技がうまい」と言われる人が舞台に立てるかというと、それとこれとは別問題なのである。セリフを与えられた瞬間に別人になれる蒼井さんであるが、いわゆる「日常生活における演技」はとても下手であろう。いつも自分に正直で包み隠すことが嫌いな性格だから、自分の振る舞いを変えることは苦手に相違ない。他人が考えた言葉を自分の言葉として話すことの難しさは、俳優や声優でないひとがドラマやアニメに出演すると如実にわかる。棒読み、感情が入っていない、台本を目で追って読んでいるのが目に浮かぶなどによってその作品への没入感を削いでしまうからだ。それだけではない。本人の個性や口調が強すぎるあまり、どんな役をやってもその人本人にしかみえないということがある。これも純粋に作品を楽しむことを妨げる要因になるが、演技することの難しさを物語っている。

 

三月にインタビューの撮影をしてその後に公演の練習風景を撮影する予定でいたが、コロナ禍によってすべてキャンセルになった。GRIT JAPANの制作も中止を余儀なくされて三ヶ月が過ぎた。薄手のコートが手放せなかった時期は遥か後方へと過ぎ去り、木々の葉が光を通さぬほど色濃くなった季節に私たちは再会した。私は俳優としての蒼井さんの顔を撮影するために一片の詩を用意していた。それを詩と呼ぶには恥ずかしい出来であるが、GRIT JAPANの信念を蒼井さんに読んでもらうことにしたのである。事前にテキストをメールで渡していたが、それについてなにも反応がなく私は不安な日々を過ごしたまま撮影日を迎えた。果たして蒼井さんはその言葉を完璧に暗記していた。プロだから当たり前、と思うのは短絡的だ。まず、事前に資料を渡しはしたが暗記しておいてほしいとはひとことも言っていない。もちろん暗記してきてくれたら嬉しいと思ったが仕事ではないものにそこまでお願いは出来なかった。しかし蒼井さんは暗記してきてくれた。そこには彼女の気持ちやプロとしての矜持、挑戦心、オープンなマインドがあるが、なによりも「楽しんだもん勝ち」という蒼井さんの信条が生きている。

 

 

人生楽しんだもん勝ち。どんな状況でも楽しむ気持ちを忘れないでいること。辛いときほどひとつでも楽しむ要素をみつけること。蒼井さんはいつも胸にその言葉を抱いている。それでも辛くて仕方のないときもあるだろう。人前では涙をみせないと決めているがこころの中で泣くことはある。だれもいないところで辛さを涙で折り合いをつけることだってある。しかしそれは一時のことだ。人生楽しんだもん勝ち。蒼井さんは再び前を向く。大好きな演劇のために。大好きな演劇で生きるために。

 

 

 

演劇、そしてそれに生きる俳優という職業は生きていくためになくてはならない仕事ではないと蒼井さんは言った。にもかかわらず世界中ではるか昔から演劇は行われてきた。ヨーロッパでは古代ギリシアにその演劇の原型をみつけることができる。その起源について明らかでないが宗教儀式として神々を表現していた一部から演劇が発生したのではないかと言われている。そしてギリシア演劇はローマへと伝わりフランスそしてイギリスへと広まってシェイクスピアを生む。日本においてのそれは中国を発祥として伝わった猿楽が日本独自の演劇「能」へと進化を遂げてすでに六百五十年以上が経つ現代にも脈々と受け継がれている。ひとはただ生きるために生きるにあらず。演劇は観るひとの魂を揺さぶってこころを豊かにする力がある、そう蒼井さんは自身の存在理由を説いた。ならば演劇は人間が豊かに生きようとするために必要な仕事であるといえよう。

 

 


参考文献

 

演技と演出 平田オリザ 講談社現代新書 2004

 

演劇の歴史 アラン・ヴィアラ 白水社 2008

 

ウィキペディア「メソッド演技法」